2009.06.  12345678910111213141516171819202122232425262728293031 2009.08.
山本勘助

愛知県豊川市に生まれた山本勘助。

名乗った名は…山本源助、大林源助、大林勘助。
そして山本勘助、山本晴幸、山本道安。

武田晴信が出家して「信玄」を名乗ると、
山本勘助も同様に出家し、「道鬼斎」と名乗った。

彼は知る人ぞ知る武田二十四将の一人。

武田信玄公五名臣の一人でもある。
武田信玄の伝説的軍師として相当に有名だ。

彼の何が凄いのか?何が有名なのか?

それは…。

彼は片目を失っていて、
そのせいで片足が不自由となり、足を引き摺って歩く。

指も普通には動かせず、その風貌は醜かったという。

しかし、そんな山本勘助は
武勇に優れ、
陣地の構築や戦術など、戦場での駆け引きに優れた。

又、築城の技術はさることながら、天文学等、軍法の知識も豊富という
まれに見る“逸材”なる「人財」だったのだ。

あまり今川義元を好きだという人は聞かない…。

ある時、その今川家の老臣からこの山本勘助を召抱えては如何かと
今川義元に推挙したのだが、
今川義元は、彼の風貌の悪さと
彼(勘助)に“供”がいないのはおかしい…との理由で、
家人に迎える事をあっさり却下してしまう。


ところが武田晴信(信玄)は違った。

この男の本質を見抜き、「人間は中身が重要」との尺度から
この山本勘助を即時、足軽大将格に据えたのだ。

その後山本勘助は
上田原の戦いで、その実力をあますことなく発揮する。

それから武田軍の連戦連勝に拍車がかかったのは言うまでもない。


この知将、山本勘助の最期は
あの有名な「川中島の合戦」だ。

それも、武田信玄が最大なるピンチとなった1561年の川中島。

上杉謙信は13000の軍勢を率いて、
武田軍と数日に亘って対峙した後
軍略の天才であった上杉謙信は、武田軍を先に動かせるまで
絶対に動かない戦術を通した。

これが有名な謙信の言葉「いずれ山は動く…」だ。


信玄が指示した山本勘助案で、先に動いてしまった武田軍は
見事にその裏をかかれてしまい、最大の危機を迎える。

この危機を脱するのに、信玄の実弟「武田信繁」
そして「山本勘助入道・道鬼斎」等の重臣が相次いで討死した。


勘助は、自己の戦略における失敗によって
全軍崩壊の危機にある事実に対する責任に決死の覚悟で、
敵中に突入したのだ。

年老いていた勘助は奮戦し、1人で13騎を倒すが、
勘助の家来たちは次々に討ち死にする。

それでも勘助は満身創痍になりながらも、大太刀を振るって戦い続ける…
しかし最後は上杉勢に取り囲まれ、
四方八方から槍を撃ち込まれ、落馬したところで首を取られた。

山本勘助、享年69。


この勘助の奮迅により、信玄は謙信の猛追に持ちこたえたのだ。

私の好きな戦国戦士の1人、山本勘助。

現代の日本に欲しい、正真正銘の大和魂だ。



2008.06.30 (Mon) 21:46
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